綱淵謙錠という直木賞作家がいました。綱淵謙錠が描いたのは敗れ去った者たちで、その敗者に温かい愛情をもって小説にしています。
その作品の中に「極」という小説があります。
描かれているのは「白瀬矗」です。江戸後期に生まれた日本の陸軍軍人で南極探検家です。
興味深い人生を歩んでいるので紹介をします。

白瀬は文久元年(1861年)、秋田県のお寺の住職の子供として生まれます。子供の頃は大変腕白な子どもだったそうです。
平田篤胤の高弟ともいわれる佐々木節斎の寺子屋に入り、新大陸を発見したコロンブスや、世界一周をしたマゼランのことを知ります。白瀬は11歳の頃に佐々木節斎から北極の話を聞き、北極に行きたいと考え、佐々木にどうすれば北極に行けるのかしつこく尋ねたそうです。
あんまりしつこく聞くので佐々木は、11歳の白瀬に対し5つの戒めを教えたそうです。
1.酒を飲まない
2.煙草を吸わない
3.茶を飲まない
4.湯を飲まない
5.寒い時でも火にあたらない
子供に酒・煙草は可笑しいですが、白瀬はこの教えを守って夢を追いかけたそうです。

30歳の頃に日露戦争で名をあげた児玉源太郎に北極探検の夢を語ると、「空理空論だ」と笑われます。しかし、「北極探検を志すなら、まず樺太や千島の探検をするように」と薦められます、

児玉の助言に従って白瀬は千島探検を志し、実現しますが、探検隊が死亡するという大変困難な探検でした。


40歳の頃にアメリカの探検家・ロバート・ピアリーの北極点踏破のニュースを聞き、傍目で見ていても気の毒で痛ましいほど落胆したそうです。
そこで北極探検を断念して目標を南極点へ変更します。
アイルランドのアーネスト・シャクルトンが南緯88度23分に到達したと知ると白瀬は意気消沈した。さらにイギリス政府がロバート・スコットが南極探検に来年も挑むと発表すると、白瀬は即座に競争を決意します。

明治43年(1910年)、白瀬は南極探検の費用補助を帝国議会に依頼し、政府はその成功を危ぶみ3万円の援助を決定するも補助金を支出せず、渡航費用14万円は国民の義援金に依った。
政府の対応は冷淡であったが、国民は熱狂的に応援した。船の調達も難航し予算も2万5千円程度だったため、残金も十分ではなかった。

積載量が僅かに200トンほどの木造帆漁船を買い取り、中古の蒸気機関を取りつけて、東郷平八郎によって「開南丸」と命名されました。ちなみに、鹿児島の桜島フェリーを調べてみると1400トンほどだそうです。だから、いかに小さな船で南極にむかったかがわかります。南極探検後援会会長には政治家で早稲田大学の創立者・大隈重信が就任します。

明治43年11月29日、開南丸は日本を出港、明治45年(1912年)1月16日に南極大陸に上陸し、その地点を「開南湾」と命名、ちょうどこの翌日にスコットが南極点に到達した。
この時には南極の探検範囲を「大和雪原(やまとせつげん)」と命名して、「日本の領土」宣言したこともあったそうです。
白瀬の突進隊数名は上陸地点付近での気象観測、開南丸はロス湾周辺の調査を行い、付近の湾を「大隈湾」「開南湾」と命名した。なお、この地は氷上であり大陸ではないそうです。


ウェリントンに戻ると、白瀬隊の内紛があり、白瀬と彼に同調するもの4名は、開南丸ではなく貨客船で日本に帰ってきた。開南丸の帰港では、約5万人の市民が歓迎し、夜には早大生を中核とした学生約5,000人が提灯行列を行ったそうです。

帰国後、後援会が資金を遊興飲食費に当てていたことがわかり、白瀬は4万円(現在の1億5千万円)の借金を背負い 自宅、軍服と軍刀を売却して、実写フィルムを抱えて、国内、台湾、満州、朝鮮半島を講演して回り、20年をかけて渡航の借金の弁済に努めたと言います。

白瀬は愛知県の、次女が間借りしていた魚料理の仕出屋の一室で亡くなります。享年85。死因は腸閉塞だったそうです。
弔問する者は少なかったし、近隣住民のほとんどが、白瀬矗が住んでいるということさえ知らなかったそうです。
晩年、白瀬は火鉢はお客さんに譲り、自分はあたらず、食事のときは奥さんがご飯や御御御付けを注いで、パタパタと煽いで冷ましていたそうです。
白瀬は11歳で描いた夢を叶えました。

皆さんも戒めを持って、自分の夢を叶えてください。