今朝は広大なロシアの地図を頭に描きながら話を聞いてください。

 大黒屋光太夫という人がいました。江戸時代後期の伊勢国(現在の三重県鈴鹿市)の回船=輸送船の船頭だったそうです。

 

 天明2(1783)年12月、紀州藩の年貢米や伊勢木綿などの江戸向けの物資を積み、17人の乗組員とともに出航しましたが、静岡県沖、遠州灘にさしかかった頃、暴風雨で遭難します。船を沈没させないように、帆柱を倒す、浸水をとめるために船底の穴を塞ぐなど、必死の努力で沈没だけは免れます。嵐の中では髻を切って神仏に祈願したと言います。

 

 食料は年貢米を積んでいたので、それでしのぎますが、船中で1人が死亡します。8ケ月漂流して、当時はロシア領だったアリューシャン列島のアムチトカ島に漂着しましたが、船は座礁して沈みます。

 アムチトカ島は大変寒く作物は育たない島で、毛皮を売買するロシア商人が住んでいるにすぎなかったのだそうです。島の人たちには大変優しくしてもらったそうです。

 この島で過ごして4年の歳月が経つと、光太夫たちはロシア語を話せるようになっていたのです。漂流してきた材料などで造った船でロシア人らとともに島を脱出し、カムチャツカ、オホーツク、ヤクーツクを経由して1789年(寛政元年)バイカル湖の近くのイルクーツクという都市にたどり着きます。

 あの広いロシアを横断する中で日本に帰る希望を失うものもいました。凍傷で足を失うものもいました。帰国を諦めて現地の女性と結婚したり、改宗してロシアに定住したのです。

 大変な困難の中、フィンランド湾に面した帝都サンクトペテルブルクにたどり着いて、光太夫らはロシアにこのように漂着したのは他にもいたこと、そして、ロシアの地で帰国出来ずに死んでいった日本人もいたと知った訳です。

 蛇足ですが、その一人が薩摩の11歳の少年ゴンザです。天文館に「ゴンザ通り」ってありますね。ゴンザはロシアで21歳まで生きましたが、「露日辞書」を作りました。

 大黒屋光太夫は幸運なことに、良いロシアの仲間の助けで、女帝エカチェリーナ2世に謁見して帰国を嘆願出来たのです。あの不幸な漂流から約9年半後の寛政4年(1792年)に根室港入りして帰国したそうです。

 

 大黒屋光太夫がどうして奇跡的に日本に帰って来れたかというと、

 ①日本に帰ると強い意志を持ち続けたこと。

 ②知的好奇心が大変旺盛で、緻密な記録もとるし、ロシア語が上手だったことが考えられます。