今年7月18日に105歳で亡くなった、日野原重明・聖路加国際病院名誉院長の話をしたいと思います。

 日野原先生は1911年、山口県生まれ、京都帝国大学を卒業して、1941年、東京の中央区にある聖路加国際病院の内科医となります。

 

 1970年3月31日、日野原さん58歳の時に人生を変える事件に遭遇します。学会に出席するため羽田から福岡に向かっていました。

 晴れた日で、飛行機が富士山近くに差しかかる頃、9人の若者が突如立ち上がり、日本刀などを抜いて乗客とスチュワーデス120人あまりの手を麻縄で縛り「我々日本赤軍は、この機をハイジャックした。これから北朝鮮の平壌に行く!」と叫んだのです。

 日本赤軍とは1960年代から1970年代にかけて存在した日本の新左翼党派のひとつで、革命は「革命戦争」により勝ち取るという思想を持っていました。

 当時、ハイジャックを知らない乗客がほとんどで、大変動揺します。

 日野原さんも同じで、自分の腕の脈を測ると平常より幾分速いのです。動揺がわかります。両親の信仰で洗礼を受けていたので、聖書の一節を思い出したり、尊敬していたウィリアム・オスラー医師の言葉を思い出したりして、落ち着くことを考えます。

 

 対馬海峡を飛行機が越えるころ、ハイジャック犯のメンバーは金日成や親鸞の伝記、伊東静雄の詩集、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」などを示したところ、乗客の誰も手を挙げませんでした。日野原さんだけが、1人だけが「カラマーゾフの兄弟」を読みたいと手を挙げたら、文庫本5冊を貸してくれたそうです。

 本を開くと、「1粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ1つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」(ヨハネによる福音書12章24節)という冒頭の言葉が目に飛び込んできました。このようなことをしながら日野原先生は心が落ち着いて行きます。

 

 事件は色々な展開をみせながら、解放されて韓国の金浦空港で人質が解放されます。日野原さんは「これからの人生は与えられたものだ。誰かのために使うべきだ」と考えたそうです。

 

 日野原先生は1941年東京大空襲の際に満足な医療が出来なかった経験から、「過剰投資ではないか」という批判を抑えて、大災害などで大量被災者が発生した時にも機能出来る病院として、広大なロビーや礼拝堂施設を備えた聖路加国際病院の新病棟を1992年(平成4年)に建設します。

 日野原さんの構想のように、1995年(平成7年)の地下鉄サリン事件の際に機能して、通常時の機能に対して広大すぎると非難されたロビー・礼拝堂施設は緊急応急処置場として使われました。院長であった日野原の判断により、事件後直ちに当日の全ての外来受診を休診にして被害者の受け入れを無制限に実施し、病院は被害者治療の拠点となり、朝のラッシュ時に起きたテロ事件でありながら、犠牲者に対応出来ることに繋がります。

 

 私が特に強調したいエピソードは、95歳にして医科大学を作る夢を持っていたことです。日本の大学は偏差値の高いだけで適性のない学生が大学に入ってくる、だから、日本でも目的意識を持った人を広く受け入れる医科大学を作ろうという夢です。

 ロバート・ブラウニングという宗教詩人の詩に「天空に大きな円を描きなさい。そして、その円を完成させるのではなく、ひとつの弧になりなさい」という一節があるそうです。

 「そのうちの小さな弧を実現できればいい。大きな円は後の人が完成してくれるでしょう。ビジョンは大きいほうがいい」と述べています。

 95歳にして壮大な夢を持っていたのです。

 

 ある説によると皆さんの人生は100歳を超える人生です。豊かな人生を送るためにも「夢」や「教養」を大切にしてください。