今日は「虹の翼」という話をしたいと思います。

 

今から150年も前に、伊予国宇和郡(愛媛県八幡浜市)に一人の天才が生まれました。天才の名前は「二宮忠八・にのみや ちゅうはち」。

「二宮 忠八」はライト兄弟が飛行機を飛ばす12年前に、「飛行器」を夢見て飛行機の模型レベルでの成功をおさめた人です。

 

幼いころからその片鱗はあり、手作りの様々な凧を飛ばして人々を驚かせます。時には、凧からチラシを撒くことを思いつき、上空に高々と舞い上がった凧からチラシを撒いてみせたこともあります。

 

忠八の家は裕福でした。しかし、長男、次男が相次いで仕事で得たお金を遊びにつぎ込み家は破産してしまいます。そんな中、忠八が12歳のときに、父親は失意の中で亡くなります。

そのために忠八は奉公に出て働くこととなります。

 

陸軍従軍中の1889年、「飛行器」を考案します。

「二宮 忠八」は残飯を求めて滑空してくるカラスに着目しました。カラスは翼を広げて羽ばたかずに舞い降りてきます。飛び立つときには何度か大きく羽を羽ばたかせて、上昇気流に乗って舞い上がっていく。その様子を見ながら忠八は、向かってくる風を翼で受け止め、その空気抵抗を利用すれば、翼を羽ばたかなくても空を飛ぶことができるのではないかと考えた訳です。

 

1891年には、丸亀練兵場で飛行実験を行い、最初となる模型飛行器「烏型模型飛行器」を完成させ、約10mの飛行に成功しました。動力は聴診器のゴムでした。人は搭乗していませんでしたが、ライト兄弟による動力飛行機の成功が1903年でしたから、12年も前に、現在の飛行原理へつながる動力飛行機が、日本で初めて空を飛んだことになります。

 

その後、色々な動物を観察する中で、一番人間が乗って飛ぶにふさわしいのは玉虫の飛ぶ形がもっとも理にかなっていると「玉虫型模型飛行器」を製作しました。

 

「二宮 忠八」これを陸軍で実用化したいと上申書を提出しましたが、忠八の願いは理解されず却下されます。

 

忠八は軍が飛行機開発に乗り気ではないと感じ、自力で研究資金を調達するため退役し大日本製薬株式会社へ入社し業績を挙げて1906年(明治39年)に支社長にまで昇進するも資金は作れませんでした。やがて、ライト兄弟の有人飛行の成功を知り、以後飛行機の全ての研究を諦めてしまいました。

 

忠八の研究の意味を理解し、その実用化に向けて様々な援助があれば、世界の航空史は、現在のものと異なっていたかもしれません。

 

自らの考えていた飛行機が現実に世界の空を飛び交うようになったとき、その事故による犠牲者の多さを嘆き、自宅に「飛行神社」を建立し、航空界の安全と航空殉難者の慰霊に一生をそそいだそうです。

 

蛇足ですが、この二宮家は薩摩にルーツがあるといいます。